祭文
靖国神社に祀られし英霊の御前にて、参拝者代表、三浦小太郎、謹んで祭文を奉る。
昭和一二年七月二九日早暁、北支通州城内にて、治安を担うはずの冀東防共自治政府保安隊の約六千名のシナ兵が叛乱を起こし、日本陸軍シナ駐屯軍守備隊を襲ふ。守備隊員百二十人、一歩も退かず勇戦奮闘するも、衆寡敵せず討ち死にしたり。
叛乱軍は学生兵をも加わり暴徒と化し、城内に居住せる約四百人の日本国民の住居、商店、旅館などを襲撃、日本人とあらば、無辜の民間人、老若男女を問わず、殺戮、暴行、略奪の限りを尽くせり。日本人の多くが宿泊せる旅館、近水楼にて、宿泊客十五人中十四人、旅館関係者十人が殺害されり。冀東政府実業庁植綿指導所の所員家族十人が、難を避けるため集結しおりしが、暴徒に襲われ、無防備のまま、身重の女性二人を除き凶弾に斃れたり。
天津の日本陸軍シナ駐屯軍は、急を聞き通州に向かい叛乱軍鎮圧にあたり、これを一掃し、叛乱は二日で収束せしも、実に二百五十人に及ぶ邦人が無念の死を遂げたり。犠牲者の中には当時日本国民たる朝鮮人約百名を含む。彼等もまた同胞として弔われたり。
当時通州に住む邦人たちは、シナ人たちと友好的かつ平和裏に共存し、彼らの生業を助け同地の発展に寄与せるものがほとんどなり。その邦人たちの善意を裏切り、計画的に虐殺したる保安隊の蛮行は、人道にもとり神もこれを許さざるものとして、当時の日本国民を憤怒の情に陥れぬ。また、当時の米国人報道記者においても「古代から現代までを見渡して、最悪の集団殺害として歴史に記録されるだろう」 と発言したり。
されど大東亜戦争後、事件は隠蔽され、歴史書からも姿を消し、国民の記憶より消し去られたり。この悲劇的事件を再認識し、失われた歴史の記憶を再建すべく、事件後八〇年を迎えた平成三〇年、この靖国神社にて慰霊祭が行われ、また有識者や事件体験者ご遺族の証言を含む大集会が開催され、それ以後、通州事件は再び日本、そして世界の悲劇的事件として認識され始めたり。
令和4年、通州事件勃発85周年の年に、事件当時の新聞記事を網羅した資料集が、志ある出版社、集広舎より出版する運びとなれり。同書に収められたる、当時の日本国民に、この惨劇を伝えた報道人たちの怒りと悲しみに満ちた文章は、現在、そして未来の日本国が、常に危機意識をもって国家主権と国民の生命を守ることの重要さを伝えんとす。
本年度令和六年末には、事件直後に執筆、上映された真山青果の戯曲「嗚呼通州城」の復刻が予定されたり。本戯曲は戦後の真山全集には収録されず、幻の作品となりしが、この復刻により、当時の劇作家と日本国民がいかにこの事件を受け止めたかを再認識する機会とならん。
本日、ここに集いし我々は、非業の死を遂げた同胞たちの霊を慰めるとともに、二度とこの通州事件とその犠牲者を歴史の闇に葬らせず、わが国の近現代史の真実を追求し続けることを心より誓う。
令和六年七月二九日
通州事件アーカイブス設立基金 並びに、慰霊祭参加者一同