至誠・熱血の人 石原隆夫さんを偲ぶ〈藤岡信勝・新しい歴史教科書をつくる会副会長〉

 つくる会の創立時からの会員であり、東京支部で長らく活動し、会の副会長もつとめた石原隆夫さんが、3月28日、亡くなられました。享年83。石原さんの教科書運動への多大な貢献に感謝し、心より御冥福をお祈りします。

 石原隆夫さんは1940年名古屋市生まれ。日本大学理工学部建築学科を卒業した一級建築士で、大阪万博エチオピア館の設計など、数多くの建築を手がけられました。1997年、つくる会が創立されると直ちに会員となり、同業で同窓生の島崎隆さん(故人)とペアーを組み、一時期の東京支部を担って積極的に活動されました。

 つくる会は過去27年間、幾度か存立の危機に直面し曲折を経て来ましたが、石原さんはすべての局面で、まったくブレずに会を支持し続けて下さいました。逆に、石原さんの反応によって、私たちの選択した道が間違っていなかったことを確認することが出来たとも感じています。

 石原さんは非常にクリエイティブな企画者で、つくる会創立20周年の記念行事の一環として会の歴史をまとめたパネル展示会、南京事件、日韓併合と日本統治の展示会などを提案し主導しました。石原さんが音頭をとってまとめた、『南京戦はあったが「南京虐殺」はなかった』『日韓併合は日本の誇り』の二つの冊子は非常によく出来ており、特に前者は増刷を重ね、発行部数1万部を超える「ベストセラー」となりました。今でも需要が絶えません。このような活動はつくる会東京支部の伝統となり、昨年の「南京・通州」の展示会、今年の「日本統治下の朝鮮」の展示会として受け継がれています。

 石原さんの業績の極めつきは、通州事件の新聞記事を資料集としてまとめたことです。2015年、中国が申請していた「南京大虐殺文書」がユネスコの「世界の記憶」遺産に登録されるという暴挙がありました。私はこれに対抗して通州事件を登録申請することを提案し、その母体として、三浦小太郎さんらとともに「通州事件アーカイブズ設立基金」を創設しました。2017年には「通州事件80周年記念行事」を開催し、通州事件関係の出版物を6点ほど刊行しました。この一連の活動の中で、基金として最も優先してやらなければならない課題として、通州事件に関連する新聞記事を資料集としてまとめる作業がありました。この仕事を担当し、果敢に取り組んで下さったのが石原さんでした。

 石原さんは国会図書館に通い詰め、戦前の国内で発行された全国紙5紙について、全ての関連記事を蒐集しました。その数275点。緻密な工夫と努力の賜です。これを11人のメンバーで手分けして現代文に文字おこしし、記事の写真とともに時系列にまとめて出版したのが、『新聞が伝えた通州事件 1937-1945』(集広舎、2022年7月29日刊)です。大判で548ページの美しい資料集の完成を、石原さんは殊の外喜びました。

 石原さんは巻末の「新聞記事の収集を通して知った通州事件」と題する文章の中で次のように書いています。

 【新聞記事の収集を通して、「通州事件」当時の日本人の怒りや悲しみがひしひしと感じられ、改めて中国人の残虐性に恐怖を感じたのだが、不思議なことに残虐行為を働いた中国人に対する復讐心のような強い感情が日本人には希薄に感じられて日本民族の仏のような寛容さに驚くとともに、やられたら倍返しでやり返す他民族に比べ、日本民族の淡泊さに複雑な思いを抱く結果となった】

 【実際、通州事件後の日本政府は日本人に対して、約8万人居た中国人留学生や在日中国人に対する保護を徹底周知させたのである。その結果、中国政府の影響下にあった留学生の大半は帰国したが、その他の中国人は日本の方が安全だとして日本に留まることを強く望んだのだった。私は新聞収集を通じて知った当時の真実を、多くの人と共有したいとの思いが強くなり、「通州事件アーカイブズ設立基金」の会合で紹介したところ、急遽、藤岡信勝会長の御提案で資料として書籍化することが決定されたのである】

 『新しい歴史教科書』は、小中高を通して全ての歴史教科書に「南京事件」が書かれている中で、唯一、存在しなかった「南京事件」なるものを書かず、反対に世界中で誰一人否定したことのない「通州事件」を、これも唯一記述している教科書です。この点、他社の追随を許しません。そして、その記述には、これだけの裏付けがあるのです。それを決定的なものとして確定する仕事を石原さんは成し遂げて下さったことになります。それは後世の日本人に対する大きな贈り物です。

 石原さんは決して人を裏切らない至誠の人であると同時に、悪を憎み祖国と日本人に無限の愛を降り注ぐ熱血の人でもありました。かといって、激したところのない、温厚、篤実なお人柄で、周囲の人から信頼されていました。さらに無類の愛妻家であり、高校時代の同級生の奥様の介護のためにつくる会の副会長を辞されました。

 お嬢様にうかがったところ、ちょうど上記の資料集出版の仕事が終わったあとに病気が発覚したとのことです。苛烈な作業が石原さんの命を縮めたかも知れないと思うと胸が痛みます。しかし、それも本望であると石原さんは思っておられるに違いありません。年末に石原さんから覚悟を決めた長い手紙を頂戴しました。その通りのことが書かれていました。私も長い手紙を書きました。去る3月13日、「明治の日」制定を求める集会の場で、東京支部の池田克彦さんから容態が悪くなっていること、4月いっぱい位ではないかとの状況を知らされました。池田さんを通して、最後のお別れに伺いたいとお伝えしたところ、藤岡先生とは十分に思いを打ち明けあったので醜態をさらすことになるからご遠慮したいという旨の返答がありました。それもよくわかります。

 石原さんという人格と巡り会っただけでも、つくる会の運動を始めてよかったと思っています。石原さんの志を受け継ぎ、日本の子供たちのために歩き続けます。石原さん、ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。

(2024年4月2日記す)

 

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